心のエステ

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Session 27~力を与えてくれる夏の子供たち

夏の終わりと秋の訪れを告げる嵐がオンタリオ湖の水面に白い波を立ち上がらせて、日本海の荒々しさを感じさせる今日この頃。トロントはすっかり秋色に染まり、その色が深まりつつあります。今年の夏はいつもより忙しく、瞬く間に駆け抜けていきました。

この夏の大きなイベントとして、6月に行った今年4度目となるSupport Our Kidsのチャリティ・ディナーパーティ、7月に行った相模原市の副市長と国際親善交流課の方々、相模原市商工会議所の方々とのバークデール公園での桜植樹式やトロント市庁舎での経済交流会、そして、8月には約2週間の日程でSupport Our Kidsプログラムの8名の東北の子供たちがトロントにやってきました。

震災から5年。月日の流れがあの日の記憶を風化させていっています。そんな中で行ったトロントでのSupport Our Kidsプログラムでしたが、今年も子供達は、愛と希望の灯火を胸にともして、各々の故郷へと元気に帰っていきました。 6日間のサマーキャンプではたくさんの現地の子供達と交流し、仲良くなった大勢の現地の子供たちも送別会に参加しました。最後のひと時を共に食べ、遊び、話し、楽しみ、温かい涙をいっぱい流して別れを惜しんでいました。

送別会で、サマーキャンプに参加したある母親の一人が私にこんな話をしてくれました。

「私の娘はずっと反抗的だったんですけど、サマーキャンプから戻って以来、人が変わったようなんです。『東北の子供達のスピーチを聞いて、涙が止まらなかった。あの子達に会えて本当によかった』と話してくれて…」 私はこの話を聞いて、思わず胸を打たれました。

8人の子供たちは、今年も東日本大震災の体験のプレゼンテーションを行う機会がたびたびありました。練習を重ねたという彼らのプレゼンテーションはまだまだ拙く、英語もうまくありません。それでも、彼らの生死と真っ向から対峙した凄まじい体験、それをけなげに克服し、一生懸命語り、前進している姿は、私達の魂を強く揺さぶります。

また、今までの支援される立場から、トロントの人々へ復興に向けて頑張っているという東北のメッセージを届け、感謝の気持ちを伝えるという役割にシフトしていっていると実感しました。5年という歳月は、子供達の心に客観的にあの日のことを振り返る力を与えてくれたようです。

10年プロジェクトのSupport Our Kidsは、来年から後半の5年間に突入します。時代も動いており、未曾有の自然災害が世界規模で起こっている今、彼らが果たせる役割は当初よりもどんどん膨らんでいるように思います。

そして、毎年思うことですが、私たちもまた彼らから新しい希望を受け取っているのです。

「チャコさん、私、絶対カナダに戻ってきます!」 最後に満面の笑顔でそんな言葉を聞かせてくれた東北の子供達にエールを送りつつ、私は胸を熱くさせながら、心の底に新しいエネルギーが沸いてくるのを感じたのです。

さて、来る11月13日には、仙台市の福祉大学でSOKで海外体験した子供達のリユニオンが開かれます。それに向けて、トロントからは毎年ホームステイのホストファミリーをしてくださっているJCCCのジェームス・ヘロン館長と私で子供達にエールを送るメッセージを作ってYouTubeにアップしました。皆様も是非ご覧になってください!
www.youtube.com/watch?v=Gk3eEXW78_0&feature=youtu.be

【Chakoの格言】痛みを分かち合う勇気は、まわりを変える力になる!

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Session 26~神様がくれた50日間の贈り物

トロントも少しずつ春めいてきて、木々に若芽が吹き出しています。今年は残念ながら桜をめでることはできませんでしたが、とにかく長い冬が終わり、素晴らしい季節がやってきました。皆さんはどんな春を迎えていますか。

渡り鳥の私は4月上旬にトロントに戻りましたが、珍しく風邪を引いてダウンしていました。しばらく養生生活をしていたときに、ここ数ヶ月間の怒涛の日々のことを何度も思い返していました。

私事ですが、2月3日に父が92歳で天へと旅立ちました。昨年12月に日本に到着するとすぐに父が倒れたとの連絡が入り、すべての予定をキャンセルして実家のある鈴鹿へ帰郷。入院を余技なくされた父の看病のため、毎日の病院通いが始まりました。その日からの父との最後の50日間は、神様が私にくれた贈り物だったと思っています。

クリスマスには2人の子供達がカナダからお見舞いに来てくれました。それぞれ家庭を持ち、子供もいる2人にとってホリデーシーズンに家を空けることは並大抵のことではなかったと思います。それだけに孫娘と孫息子が来てくれたという喜びに満ちた父の顔が忘れられません。私達にとってかけがえのない素晴らしいクリスマスの時間を過ごすことができました。

一方、しばらくぶりの日本の冬は想像以上に大変でした。とにかく家の中が寒い!実家は天井が高く、部屋ごとに暖房を入れるしかないので、廊下や台所などでの底冷えは体にこたえました。さらに異例の大雪にも見舞われ、ドアが開かなくて病院に行けない日もあったほどでした。

ハワイ行きの予定も延長し、ひたすら父との時間を重ねました。父の頭の中ではこの世とあの世が次第に交じり合っていくようで、突然「今、●●さんに会ってきた」と亡くなった方の名前を口にしたり、「お母さんはどこにいるの?」とすでに他界した母のことを尋ねてきたりしていました。そのうち、自分が病院にいるということも分からなくなっていきました。私にできることとえいば、そういう父の一言一言に耳を傾けて寄り添うことだけでした。

「その日」は、やはり分かりました。「あぁ、今日だな」という直感がありました。静かに厳かに旅立っていった父の安らかな顔を見つめながら、あなたの娘で幸せでしたと言って、合掌しました。

人とのつながりのご縁で葬儀会場の教会もすぐに決まり、私の娘と息子もそれぞれの家族全員でスカイプを通して葬儀に参列してくれました。きちんと喪服を着てのぞんでくれたので、まわりの方々から驚かれました。カナダと日本では葬儀に対する常識が違いますし、私も服装のことなど何も話していなかったのですが、父の葬儀に心からの礼儀でのぞんでくれたことに感謝の想いがあふれました。父はそんな彼らを誇りに思ってくれたに違いありません。また、カナダからも供花や弔電をたくさんいただき、父もとても喜んでくれたと思います。

さて、葬儀が無事に終わった後、私を待ち受けていたのは、怒涛の遺産と遺品整理です。分からないことだらけで独り右往左往する私にたくさんの方々がヘルプの手を差し伸べてくださいました。私の友人に法律関係の仕事をしている息子さんがいて、彼が「海外在住者のケースは珍しいので勉強のためにやらせてほしい」と申し出てくれたときには、涙が出るほどでした。というのも、実家の不動産売却にはかなり煩雑な手続きや労力と費用がかかるのに、いろいろな条件などの関係でいくらにもならないことが分かっていたのです。感謝、感謝の連続でした。

人は人に支えられて生きている、そう改めて気づく機会を父が与えてくれました。そして、私はひとりじゃない、まわりの人すべてが私にそう思わせてくれました。

そんな矢先、熊本と大分、そしてエクアドルで大地震が起こり、多くの人々が困難に直面しています。人は人に支えられて生きていることを忘れずに、私も微力ながら復興支援をしていこうと思っているところです。

【Chakoの格言】私はひとりじゃない、あなたもひとりじゃない!

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Session 25~日本の着物とカナダのレザーのコラボを実現

2016年、新しい年が幕を開けて瞬く間に1か月あまりが過ぎていきました。私は昨年12月半ばから父の看病のため、鈴鹿の実家から毎日病院へ通っていました。夕方になるとショッピングセンターに寄って食品を買って帰るのですが、そこで新しい感覚の着物屋さん(呉服屋さんではなくて)を見つけました。

決して高価な商品ではなくて、誰もが洋服を着るような気楽な気持ちで着物を着るというコンセプトです。若い男性の店主さんと気軽におしゃべりをして、私も以前から欲しいなと思っていたヒールが高めの草履を注文しました。草履の色と鼻緒を自分で選べるシステムなので、出来上がりがとても楽しみです。

着物というと、私にはレザーデザイナーとしての原点となった貴重な思い出があります。

1985年に始めた毛皮のビジネス、その当時はミンクのコートが商品の主流でした。日本のバブル経済も相まって、数千ドルのコートが飛ぶように売れた時代でした。

ところが、毛皮反対運動が世界的に広まり、トロントのファッション地区と呼ばれていたスパダイナやアデレード通りの毛皮店が軒並み閉店するという、毛皮産業大恐慌が巻き起こりました。ご多分にもれず、ジェームス・モト・エンタープライズ社の運命にも危機が迫っていました。

そんなある日、私は「毛がついたのがダメであれば、毛がないレザーで勝負してみたらどうかしら」とひらめいたのでした。一着あたりの単価は下がるけれど、その分、大勢の人に買ってもらえばいい、と。そう考えた私にジェームス氏いわく、「皮ジャンなんてアメ横で安く売ってるよ」

私はふと、日本の着物は何年も同じデザインなのに、次から次へと新しい着物が欲しくなるのはなぜなんだろう、と一つの疑問がわいてきました。その時、私には天からの声が聞こえたのです。

そうだ! 図柄だ! プリントだ! 色だ!

このひらめきは当たりました。従来の黒いレザーーのイメージを払拭して、ペイズリー柄、花柄、ヘリボーン柄、とにかくさまざまなカラフルなレザーが誕生しました。まるでそれはシルクの着物の生地が出来上がったようでした。

さらに、軽さを出すためにレース状にパンチ加工をしたり、男性もののジャケットにもツイード調を出してみたり、5色使いにしてユニークな配色をしてみたりしました。そうして生み出したレザーは、トロントのファッション誌やテレビインタビューなどで取り上げられ、「Leather feels like silk」と呼ばれました。また、あるファッション誌は私のレザージャケットを「East meet West」「Fashion marriage」などと評してくれました。そんなわけで、世界で一つだけの商品作りをすることによって、ビジネスは右肩上がりになっていきました。

毛皮反対運動の危機感がなければ、「CHAKO for JME」ブランドは生まれなかったのです。

母の時代の人達は、戦争中は物がないので「足りぬ、足りぬは、工夫が足りぬ」という標語があった、とよく言っていました。私は、この「工夫をする」という生き方がとても気に入っています。

小さな工夫でも、そうすることで日常がちょっと楽しいものになったりします。毎朝、父の病室に行くと、空気がとても乾燥していました。そんな時、私は家から持参した洗濯柔軟剤ファブリーズを水で薄めて霧吹きでカーテンに噴霧していました。そうすると、病室とは思えない良い香りに包まれます。看護師さんたちが、「この部屋に来ると癒されます」といってよく立ち寄ってくれました。

【Chakoの格言】どんな時にも心をやわらかにして工夫する生活を始めよう!

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Session 24~今また新しい年にむかって

今年も冬のホリデーシーズンとなりました。読者の皆様はどんなふうに過ごしていらっしゃいますか。この時期は季節の挨拶をしたり、カードを贈ったりしながら、一年を振り返るという人も多いことと思います。

私は2015年が幕を下ろし、また新しい一年の幕が開くことに喜びを感じると同時に、あまりの時間の過ぎ去る早さに驚きを覚えています。振り返れば、2015年はいつにも増して多忙を極めた一年でした。私は、12月から4月にかけて1年の3分の1を日本とハワイで過ごしているため、残りの3分の2でトロントでのいろいろな行事をこなさなければなりません。時には無理をしなければならないことも多々あります。

まず、4月にハワイから戻ってすぐに着手したのは、相模原市とトロント市が行う桜植樹プロジェクトでした。6月には、ロータリー国際大会に出席した相模原ロータリークラブの皆様のトロント訪問があり、現地日系人との交流を行いました。翌7月には、相模原、トロント両市の友好姉妹都市記念さくら植樹がスカボロー地区バークデール公園で執り行われました。来年の25周年記念行事に向けて両市の交流がますます活発に行われるよう微力ながらお手伝いしていくつもりです。

次は、今年のハイライトの一つでもある、東日本大震災被災児童をカナダでのサマーキャンプとホームステイに招待するSupport Our Kidsです。今年はネパール大地震への寄付も行いました。6月の基金集めのためのチャリティーガーデンパーティに始まり、ホームステイのホストファミリー募集、8月に約2週間の滞在をするために学生10名がやって来て、無事に帰国するまで気が抜けません。これらの仕事を支えてくれたのは、素晴らしいボランティア・スタッフ、ホストファミリーの皆様、トロント日系福音教会の皆様、フォレストヒル・ロータリークラブの皆様でした。参加児童たちはトロントの人達の心の優しさと思いやりに触れて、驚きと喜びに包まれて無事に帰国しましたが、私自身もこのプロジェクトを支えてくださった皆様の人間力に感服し、感謝の気持ちでいっぱいになりました。

11月7日には、日加移民再開50周年を記念して「水前寺清子ショー」が日系文化会館で行われました。客席のすべての人たちが、人生の応援歌を歌い続けて50年の芸歴を持つ彼女から勇気をもらいました。思えば、彼女がハワイの自宅に遊びに来るようになって3年目にして、トロントでのコンサートが実現したのです。コンサート終了後には、感動した!力をもらった!との声があちこちから聞かれ、皆様に喜んでいただけて本当によかったと思っています。

さて、私は仕事を引退して3年になります。新移住50周年を記念すべく、新移住者として自著を出版することは私の大きな目標でしたが、今年、遂にそれを実現することができました。私の初めての著書「ゼロになれることは素晴らしい その時が新たな出発点」の出版記念講演会は、12月1日に日系文化会館で行いました。大勢の方々に来ていただき、感謝感激でした。本を読んでくださった方々からは、共感の声や、元気が出た等のコメントをいただきました。これをきっかけに、私も本を書いてみようという方々が続々と出てこられることを期待しています。

私はこれから日本、シンガポール、ハワイ、そして、再び日本に滞在し、来年4月にトロントに帰ってきます。どんな方と出会い、どんなお話が聞けるのか楽しみにしつつ行ってまいります。

読者の皆様にとりまして、心安らかな素晴らしいクリスマスと新年でありますよう。心からお祈り申し上げます。

2016年も、「心のエステ」をどうぞよろしくお願い申し上げます!

【Chakoの格言】1年を感謝の気持ちで振り返ろう!

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Session 23~水前寺清子さんから聞いた感動話

11月7日、日系文化会館で行われた水前寺清子さんのチャリティコンサートはエネルギッシュな歌声と熱い感動のうちに幕を閉じました。素晴らしい時間を持てたことを心からうれしく思っています。

「歌のジャンルが好みと違うので興味がないと思い込んでいたけれど、芸にカテゴリーわけしていた自分の見解の狭さに気付いた!」と、コンサート終了後に熱く語ってくれた来場者の方もいて、私も心から共感しました。

50年という長い年月をかけて打ち込んできた芸には、万人の心を打ち、魂を揺さぶる力があります。それを実感する貴重な体験をトロントの日系人の方々と共有できたことは私にとって一番の収穫でした。

最初にタキシード姿でステージに登場した彼女のキレの良い身のこなしにまず胸がキュンとなり、テンションが高まりました。曲はおなじみの「365歩のマーチ」で始まり、人気テレビドラマ「ありがとう」のテーマソング、ジャズナンバーと続き、観客は一気に彼女のとりこになってしまいました。それはまるでタカラジェンヌの舞台を見ているようでした。

日系人の方々の間では水前寺さんの「1+1の音頭」が有名だそうなのですが、私はそのことを今回初めて知りました。

実はチケットセールス活動のためにいろいろな場所にお邪魔させていただきました。先月には、日系文化会館が70歳以上の方々を招待して、お弁当を食べていただいたり、歌や踊りを楽しんでいただいたいりする「一世デー」というイベントがありました。

集まった約500名ほどの来場者の中には100歳以上の方々も数名おられました。そして「1+1の音頭」が流れると、会場のいたるところから踊りの輪に加わる方々が続々と出てこられ、手拍子よろしく嬉々として踊り始めたのです。

私は早速、水前寺さんの事務所にメールし、トロント公演の際にはこの曲を入れてくださいとお願いしました。

しかし、ディレクターの方から「この曲は40年前にペプシコーラの宣伝用に一度歌ったきりで、本人はそれ以来一度も歌っていない。ほとんど新曲と同じくらいの感覚だと思うので、コンサートで歌うのは無理でしょう。しかし、なんとか企画を作ってどこかに入れるようにしてみます」というお返事をいただきました。

そして当日、なんとご本人が歌詞を手に歌ってくれたのです。彼女が歌い始めると、舞台下には歌に引き寄せられるようにして観客席から出てきた方々の踊りの輪が生まれました。

今回のトロント公演のためにファンクラブの方々20数名が日本から来られていたのですが、彼らの一人が「今回、トロントのコンサートに来て本当によかった。40年ぶりに1+1の音頭が聞けました!」と昂奮気味に話しておられたのも印象に残っています。ちなみにファンクラブの方々の中には、チータのコンサートはデビュー以来すべて見ているという方もいらっしゃいました!

水前寺さんから直接聞いた話によると、ペプシコーラのCMは大きな宣伝ポスターの前で歌っているところを撮影したそうです。ところが当時、彼女はコカコーラのファンでペプシを飲んだことがなかったそうです。それを聞いたペプシのスタッフは、自社製品のかわりにコカコーラを差し入れてくれたのだそうです。そのことにいたく感動した彼女は、それ以来すっかりペプシファンになったということです。

押してもダメなら引いてみな、という歌詞がありますが、人の心や好みを自分の主張で押し通すことより、相手への気遣いで逆にこちらのファンにしてしまうことがあるというお話を水前寺さんご本人からも聞かせていただきました。

「1+1=2」ではなく「1+1=無限大」の力があること。一芸を磨き続けていると、あるいは一つの仕事に身を捧げていると人知を超えた力が現れる時があること。それを人は奇跡と呼んだり、神業と呼んだりします。彼女が自分の芸に一秒、一時間、一日をいかに素直に真摯に向き合い生きてきたかの証しのようなコンサートでした。

以上が、華々しく開催された私達の日加移住再開50周年記念コンサートの話です。さあ、未来へ向かってこれからも一日一歩、三歩進んで二歩下がっても、実直に歩み続けていきましょう!私もトロントに住むいろいろな方々と楽しく前進していきたいと願っています。

【Chakoの格言】1+1=無限大!

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Session 22~移民の歴史は人の数だけある

今年は戦後70周年、そしてカナダが日本からの移民を再開してちょうど50周年という節目の年です。日系文化会館では、これを記念して11月7日(土)に日本の演歌レジェンド・水前寺清子コンサート、翌8日(日)には移民再開50周年のパネルディスカッションが開催されます。この2日間は私も水前寺さんの歌声で元気をもらい、新移民として日本とカナダの移民の歴史に思いを馳せようと思っています。ちなみに、水前寺さんとのご縁は、ハワイの自宅に何度か遊びに来られたことがあり、それがこのたびのトロント公演のきっかけとなりました。

さて、カナダに移民をした人はその理由や思いもさまざまだと思います。中には子供の頃から海外で生活したいと考えていた人もいるでしょう。逆に、日本を出て生きることになるなんて夢にも思わなかった人もいると思います。私もまさか自分がカナダに移民することになるなんて考えてもみませんでした。

大体、私は日本が大好きで英語が大の苦手でしたし、結婚して子供を産み育てることが天職だと思っていたくらいです。

それでも思い返せば、子供の頃に洋館に住む自分を心に思い描いていたことがありました。その洋館にはウォークインクロゼットがあり、そこで「今夜のパーティに着るドレスはどれにしようかしら」なんて思案しているのです。

そんな私がカナダに来たのは1971年、大阪万博の翌年のことでした。急速な経済成長を遂げ続ける日本を後にしてトロントへと飛び立った私の胸中には一体どんな思いがあったのでしょうか。とにかくゼロになって自分の人生を生きてみたい、そんな一心だったと記憶しています。それでも旅立つときには涙がこぼれて仕方がありませんでした。

カナダ生活を始めた当初は、貧しさからヒッチハイクで仕事や買い物に行ったり、スーパーの裏で捨てているレタスをもらって食べたり、育児と仕事に追われて疲労のあまり失語症になったこともありました。キャリアもスキルも英語も話せない20代の子持ちの主婦が、自分は何をする人なのかを探す長い旅の中では、土下座もしましたし、思い通りにいかずに泣きながら夜道を歩いたこともありました。

でも、怒りも涙も悔しさも、すべては人生の喜びと感謝に進化していきました。40数年間、私という人間を磨かせてくれたカナダの大地と、共に歩んでくれた人々━会社のスタッフ、仕事でかかわった人達、パートナーのジェームス松本、素敵な友人、家族、そのほかであったすべての人達━は私の宝物です。

カナダへ行くという大きな決断に迷っていた私の背中を押してくれたのは、亡き祖父の言葉でした。

「久子よ! 今の時代、一人子だからといって、家業は継がなくてもよい。だけど、どこに行って何をしても、人に笑われるような生き方はするな」

死に水をとっているときに、祖父は私にはっきりと語りかけてくれたのでした。壮絶な胃がんの痛みと戦った祖父から私への遺言だったのです。

カナダに移民した人一人ひとりにそれぞれのストーリーがあると思います。そして、誰もが自分のかけがえのない歴史を今日もまた築き続けているのです。

新移民の読者の皆さん、このカナダの大地に一歩踏み出した日のことを今一度思い出してみてください。あの日思い描いた「なりたい自分」になっていますか。

私はまだまだ旅の途中です。

私の思いは、水前寺さんの代表曲「365歩のマーチ」の3番の歌詞に重なります。

長い長い道のりもすべては小さな1歩から始まっているのです。

【Chakoの格言】今日はあなたのかけがえのない歴史の1ページ!

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Session 21~伊勢湾台風が教えてくれたもの

今から56年前、5000人以上の命を奪った伊勢湾台風がわが町に上陸したあの日、私はまだ小学生でした。1959年9月26日、自然の力によって一夜にして人間の築いてきた世界があっけなく破壊されていく様子を目の当たりにしました。

当時、鈴鹿で木工所を切り盛りしていた両親は、田舎へ引っ越して養鶏場経営へ転職したばかりでした。当時としては画期的なデザインの二階建ての鶏舎を建てたり、鶏に無農薬の発酵飼料を作って食べさせたりしていました。両親、祖父母と私の5人は人生半ばの転職で一人ひとりが必死になって戦っている最中の出来事でした。

水分をたくさんとった鶏糞はどろどろしていて始末に負えません。それをコンクリートの土間につき出して天日で乾燥させます。生乾きになった鶏糞を今度は筵の上にまんべんなく並べてさらに乾燥させ、それを袋詰めにしていくという、都会から来た人にはちょっと勇気のいる単純作業がありました。夏休みになると、私はこの作業を知的障害者施設を出て住み込みで働いていた2人の従業員の方達と一緒に手伝っていました。小学4年生の女の子にとって大きな生活の変化でしたが、厳しい環境の中で働く両親の姿を見ていると、自分でも何か手伝えることはないだろうかと、じっとしていられない思いでした。

そんな秋の終わりに伊勢湾台風が我が家を襲ったのです。隣の家の物置小屋が吹き飛ばされました。それを目で追う私の耳にバタンバタンとトタン板や瓦の落ちる音が大風の中で鳴り響いていました。我が家は伊勢湾と鈴鹿山脈の中間あたりで、水害の心配のないところでしたが、それでも大量の風雨で床下浸水しました。畳を上げて部屋の中央に積み上げ、その上に皆で車座になって一夜を過ごしました。母が歌集を持ち出してきたので、知っている歌を皆で歌いました。まわりで吹きすさぶ大暴風雨の恐怖を打ち消すように一晩中たくさん歌い続けました。

停電は1ヶ月くらい続きました。水も出ません。畳も水がついてしまったので、電気が戻るまでの1ヶ月は外でキャンプのような生活をすることになりました。親を亡くして孤児になった子供たちがいっぱいいましたから、持っていけるものを抱えて先生方と自転車でよく慰問にも行きました。

私たちの鶏舎が無事だったのは奇跡としか言いようがありませんでした。が、何万羽もの鶏たちは水がなければすぐに死んでしまいます。私は祖母と一緒にリヤカーの上にドラム缶2個をのせて水をもらいに行きました。谷や山を越えていく道のりは坂が多く、小学生の私にはきつい仕事でした。そのときに、私は上り坂より下り坂の方が怖いことに気づいたのです。土だけを見て一歩一歩大地を踏みしめるようにして上っていくことは力はいりますが、むしろ安定感がありました。下り坂にさしかかり、これで楽ができると思ったのも束の間、水の重さが一気にのしかかり、自分だけではコントロールがきかず、祖母に「引っ張って、引っ張って!」と叫び続けなければなりませんでした。

私は今でもあの感覚を生々しく思い出すことができます。ビジネスでも上り坂にいるときは開拓の苦労も一つの醍醐味でしたが、ビジネスを閉めるときには重荷を背負って下り坂を行くような、自分の力以外の何かに押されているような怖さがありました。

伊勢湾台風が去った後、私は前にも増して親の働く姿を追いかけるようにして生きていました。どうして自分がこんなつらい毎日を送らなければいけないのだろう、などとは露ほども考えませんでした。両親は一体いつ寝ているんだろうと思うくらい必死で働いていたのです。

そんな彼らの姿を見て、私も自分でできることを探しては手伝わせてもらっていました。そうしながら、私は「これはお父さんとお母さんがやっている仕事だ。私は私でいつか自分の仕事を築いていくんだ」ということを漠然と考えていました。

その頃はまだ子供でしたから、湧き出る泉のようにいろいろな夢を描いていました。そんな漠然とした多くの夢を見ている時、こんな事を成してみたいというひらめきがやってくる事があります。その時こそがビジョンを構成していく大きな契機です。まず、なるべく具体的な図面を描き、言葉も書いてみます。私は、「こうなりたい」「こうしたい」ではなく、「こうなりました」「こうしました」と未来を断定的な言葉で記していきます。超ポジティブ思考です。

小学生の私の目に焼きついたあの日の風景、一変した生活、たくさんのものを失った人々、決して順風満帆な日々ではありませんでした。でも、人間は負けなかった。苦しいとき、逆境のとき、本当に深く傷ついたときこそ、人間力が鍛えられ、高く飛べるということを私はあの伊勢湾台風で学んだのです。

【Chakoの格言】人間力は傷ついた時、失った時に成長する

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Session 20~実録・おにぎり事件

前回、「おもてなし」のお話をしました。今回は一風変わった「おもてなし」が功を奏したある事件のお話です。

私が革・毛皮製品のデザイナーとして仕事をし、バスツアーでショールームに入店したお客様を接客していた頃のことです。

お店ではカナダドルだけでなく、米ドルや日本円での支払いも受けていました。入店が終わると、お支払いに間違いがないか二人体制で確認します。忙しい時期は腱鞘炎になりながらの作業でした。その時のポリシーはいただき損は請求せず、多くいただいた時は必ずその日のうちに返金する、というものでした。

ある日のこと、おつりのミスがあったため、スタッフがホテルに多く受け取ってしまった分を返しに行きました。すると、そのお客様は烈火のごとくお怒りになり、「このような事があるということは、他にもごまかしがあるはずだ。責任者を呼べ!」と怒鳴りつけたといいます。スタッフから報告を受けた私は、おっとり刀で駆けつけました。

ホテルに到着し、お部屋に入ると、怖い顔をしたお客様たちが車座になって私を待っていました。その場はちょっと趣向の変わった催し物を見物するような雰囲気になっていました。お酒がはいって、ほんのり赤い顔のお客様もいらっしゃいました。

先刻のお客様はご自分の言葉に鼓舞されたようにだんだんと強い口調になり、「こういう時は男の責任者が来るもんだ。とにかく土下座だ、土下座して謝れ!」ときました。私は「皆様のお心をお騒がせしましたことを大変申し訳なく思います」と深々と頭をさげ、こう付け加えました。「今日、お買い上げいただきました皆様が、ご不満があられるようでしたらすべて返品していただいて結構です。どうぞ、お申し出くださいませ」

すると、約半数以上のお客様が追加オーダーをしたいと言うではありませんか。急いでお店へ戻り、追加オーダーいただいた商品を各々のお部屋へお届けし、家に帰ると真夜中の1時を過ぎたところでした。

昔の私でしたら、泣き出したくなる状況でしたが、この日はそうではありませんでした。毎日、一期一会のお客様に真摯に対応することを従業員に言い聞かせてきた自分が、今日のようにお客様を怒らせたまま帰らせてしまうわけにはいかない、そんな思いでいっぱいでした。

明日、午前5時半にホテルを出発するというお客様のスケジュールは教えていただいていました。「ホテルのマフィンの朝食を苦手な日本人の方も多いはず…そうだ、おにぎりを作って皆さんに食べていただこう」

23人分、一人2個ずつの梅干入りのおにぎりを持って、早朝、バスに乗り込むお客様へとびきりの笑顔とともにお渡ししに行きました。

昨夜の鬼の形相で怒っていたお客様の番がきました。「いってらっしゃいませ。またお会いしましょうね」。そう言っておにぎりを手渡し、しっかりと手を握りました。座席に着いた彼が座るやいなや、私のおにぎりをほうばっている姿を今も忘れることはありません。

怒りに対して同じ怒りで戦わず、私は「おもてなし」で応戦しました。そこには勝ち負けなどありません。美味しいものは人を笑顔にし、気持ちよくしてくれる、そういうシンプルなことが、私とお客様を喜ばせてくれたのだと思います。そして、本当に感謝な事は、その時、おにぎりを握るという行動に私を駆り立ててくれた私自身の直感の力です。おもてなしは、される側以上にさせていただく側にも恵みがあることを実感しました。

贅沢なものが「美味しいもの」ではありません。相手を想う心が込められたものが「美味しいもの」になるのです。

【Chakoの格言】本当の「おもてなし」はさせていただくという想いから!

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Session 19~おもてなし、してますか

夏、この素敵な季節を皆さんはどんなふうに過ごしていますか。私にとって夏は「おもてなし」の季節です。

6月には東日本大震災被災児童自立支援プロジェクトSupport Our Kidsのチャリティガーデンパーティを自宅で開催し、約130名の方々が集まってくださいました。7月には相模原市との桜植樹式と交流会を行い、日本から約30名の方々が来加されました。8月にはSupport Our Kidsで10人の東北の子供達がトロントでホームステイやサマーキャンプ体験をしにやってきて、最後の2晩は引率の方を含めた11名全員で我が家で合宿です。

このほかにもさまざまな交流会や食事会をホストしたり、招かれたりして、今夏も新しい人との出会いに恵まれ、「おもてなし」をしたり、されたりする夏を過ごしています。

「おもてなし」という言葉は、ご存知のように2020年東京オリンピックのプレゼンテーションで滝川クリステルさんが語り、2013年流行語大賞にまでなりました。見返りを求めず、思いやりと奉仕の心に満ちた日本文化を象徴する素敵な言葉だと思います。ちなみに、四国のお遍路さんに食べ物やお賽銭をふるまうことを「おせったい」というそうです。

たくさんの人が楽しめる家にしたいという子供の頃からの願いが実現し、我が家はまさに「おもてなし」の場になっていますが、私は心からこれを楽しんでいます。

前の晩、時にはもっと前から料理の仕込みをしたり、テーブルセッティングを考えたり、料理の素材を吟味したり、どんな花を飾ろうか、どんな演出をしたらいいだろうかと考えるとワクワクしてきます。

私が人をもてなすために惜しみなく労力を注ぐ理由はただ一つ。それは、笑顔が見たいからです。ゲストの笑顔こそが私の喜びです。大きなプレッシャーを背負っている人たち、想像を絶する苦難を体験してきた子供たち、いろいろな活動をしようと一緒に頑張ってくれる人たち、そんな人たちが見せる笑顔は、本当にプライスレスです。

おもてなしは、何もお金をかけて贅沢な料理を出すことが最高というわけではありません。私が、まだ低所得者住宅で暮らしていたときも、今と同じようにたくさんの人を招いてホームパーティを開いていました。じゃがいもと卵をたくさん買い込んできて手作りのポテトサラダを作り、安いお肉を一晩かけてじっくり煮込みます。それにパンとワインがあればなんとかかっこがつきました。こんな素朴なメニューでも集まった人たちと心から打ち解けて和気藹々といただくとき、その味わいは高級レストランにも勝る極上のものになるから不思議です。

夏はBBQの季節です。太陽の下、爽やかな風に包まれていただく食事も最高ですね。パートナーのジェームスと私は、お天気の良い日は毎日外で食事を取るようにしているので、真っ黒に日焼けしてしまいました。

果物や野菜も太陽の光を浴びると甘みや旨みが増すようです。お店で買ってきて、甘みが今ひとつ足りないフルーツは、朝日に青いおしりを向けて日光浴をさせてあげます。桃、マンゴー、メロンなどフルーツはみんな甘みが増してとても美味しくなります。

ビーフも、塩こうじ漬けにしたり、マリネにしたお肉をペーパータオルでふいて、一夜干しをを作る要領で朝日に干します。こうすると、なんと高級レストランのエイジドビーフの風味で美味!お日様のパワーはスゴイです。こんな風にあれこれアイデアを考えたり、それを試したりすることは、私にとって想像力も磨いてくれる心のエステなのです。

去る8月6日は広島原爆記念日、8月9日は長崎原爆記念日でした。今年はトロント市内の教会で行われた記念イベントに参加してきました。原爆の恐ろしさを改めて考えさせられ、8月15日に終戦を迎えてからの日本の苦難の日々に思いを馳せました。何も無かった次回、食はまさに「命」でした。

あれから70年の月日が流れ、私達、戦後移住者がカナダで暮らすようになって今年で50周年を迎えます。苦しい時代も絶えることがなかった日本の「おもてなし」の心、日本にいてもカナダにいても、忘れずにいつも大切にしていたいものですね。

【Chakoの格言】「おもてなし」から生まれる笑顔であなたも幸せになろう!

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Session 18~お金は天下のまわりもの

トロントは今、新緑まっさかり。太陽が輝く素晴らしい季節がやってきました。 昨年末から新年にかけては、カナダに住む子供達家族と孫10名、そして日本からは93歳の父を迎えて総勢13人でハワイ合宿というにぎやかな時間を過ごしました。

その後、日本を訪れ、3月には私が主宰する新風義塾で支援を続けている東日本大震災被災児童自立支援プロジェクトSupport Our Kidsのチャリティ野球イベント「トモダチチャリティベースボールゲーム」に参加。元プロ野球選手のデレク・ジータ氏や松井秀喜氏に会ってきました。

今は、今年の8月のトロントでのホームステイ&サマーキャンプ「Support Our Kids in Toronto」 に向けていろいろと動き出しているところです。

さて、私はさまざまなチャリティ活動に参画してきましたが、どんな内容のチャリティでも資金が必要です。そのため、私はよく我が家を開放してファンドレイジング・パーティを開催します。実は、リタイアして郊外のオンタリオ湖が一望できるこの家に引っ越した理由は、この目的のためといっても過言ではありません。

今年も6月21日(日)にSupport Our Kidsのためのチャリティ・パーティを開催する予定なのですが、日本とカナダではチャリティに対する感覚が大きく違うことを毎回痛感させられます。

たとえば、何かの記念日にレストランに出かけて、美味しいワインに舌鼓を打ちながら楽しく食事をしたとします。そこで100ドル支払いました。その100ドルと、チャリティパーティ参加費の100ドルは、同じ100ドルでも内容も価値もまったく違います。

私は現地のチャリティイベントにも数多く出席してきましたが、入場料に対して内容はとても質素なのが一般的。そのかわり、会場では皆とても良い笑顔をしています。チャリティの趣旨に賛同して集まった温かい心のふれあいがそこここで生まれ、会話に花が咲きます。お酒やお料理はあくまでも脇役。市場より高い値段がつけられた商品が飛ぶように売れる光景も珍しくありません。カナダ人はチャリティに対する意識がとても高いのです。

チャリティイベントに関しては、対価を期待するのではなく、自分がどれだけ与えられるかが大切です。与えられるものは必ずしもお金ではないかもしれません。歌が得意な人は歌を歌ってイベントを盛り上げたり、力持ちはテーブルを運んだり、細やかに気がつく人はごみを捨てたりして会場を美しく保ちます。人ができることは人の数だけあるのです。人はどこにいても花を咲かせることができるのです。

お金では絶対に買えないものがチャリティイベントには必ずあります。それは人との出会いであり、新しい発見であり、新しい知識であり、新しい気づきです。

チャリティ精神とはなんでしょうか。私は「愛することは行動」だと思います。そして、それは自分への希望や喜びという贈り物を運んできてくれます。

巡り巡ってある日、予想もしていなかった別の形で大きな喜びが返ってくることもあるかもしれません。世の中のお金はそうやって天下をまわっているのかもしれません。

たまにはふだんと違ったお金の使い方、してみませんか。

さて、というわけで、6月21日(日)のガーデン・パーティでボランティアをしていただける方を募集しています。お名前、連絡先、簡単な自己紹介、カナダでのステイタスと滞在期間をご明記のうえ、E-mailで連絡してください。info@shinpugijyuku.com

一日一生懸命働いて、お互いの命の花を咲かせましょう!

【Chakoの格言】あなたらしいチャリティ精神を発揮しよう! 

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Session 17~「貯める」ではなく「稼ぐ」という発想

新年、あけましておめでとうございます。皆さんはどのような新年の幕開けでしたか。私は今年もいろいろなことに挑戦し、一人でも多くの笑顔を見たいと考えています。

さて、新年といえば「お年玉」。子供の頃は楽しみだったものです。といっても、私は自分で言うのも変ですが、少々風変わりな子供でした。人様からいただくものより、自分で稼ぎ出すことの方に興味があったのは、やはり子供の頃からだったようです。

現代は、生きるために仕事をする、仕事でストレスがたまる、ストレスがたまって体調が悪くなる、でも生きるために仕事をやめるわけにはいかないという悪循環。

一体どうやったらお金が貯まるのでしょうか。お金を使うことが大好きで、まったくお金が貯まりません。働いても働いても一向にお金が貯まらず、ワーキングプアの状態で夢も希望もありません。…こんな嘆きの声を聞いたことがあります。

分かります、よーく分かります。私もそんな時代をカナダに来てからずいぶん長く経験しました。一生懸命働いているのに、お金が貯まらない。今日食べるものもままらない。そんな時、どうしたか。とにかく、工夫しまくりました。

人が捨てるようなものが、私にとっては宝物。ちょうどホリデーシーズンになると素敵な包装紙があちこちに捨てられていましたから、それを集めてきて、折り紙でモビールを作って売ったりなんてこともしました。当時は珍しいもの好きの常客がついて、飛ぶように売れたものです。その時に心底思ったことは、「クズは捨てておけないな」。

頭を使ってどんどん工夫することは、とても楽しいことです。それで節約できたり、稼げたりできるのですから一石二鳥というもの。事実、私は今でも当時のことを思い出す時、苦しかったなどとは思いません。むしろ「楽しかったなあ」と笑顔になってしまいます。

ワーキングプアでも楽しんでしまう。「お金がないから夢もない」という人は、たぶんお金があっても夢が描けない人です。お金に関係なく描けるから夢なのです。そう、夢を描くことはタダです。そして、プアなときこそ素晴らしい夢が出てくるのです。開き直りましょう。失うものが何もなければ最強です。そして、夢は具体的に描きましょう。文字にして書いてみましょう。図を描きましょう。具体的になれば、あなたの行動が変わります。

お金は使えばなくなります。お金を使うことが好きな人は、使うお金をどうやって貯めるか、と考えるのかもしれませんね。私はいつも、お金を貯める方法より、お金を稼ぐ方法を考えていました。夢の実現のためにはどのようにお金を稼ぎ出せばよいかを考えるのは、楽しい行動の始まりです。

私は以前、毛皮やレザーをデザインし、販売していました。そのときにひらめいて目をつけたのが、日本の着物愛好家の心理です。ご存知のように着物のデザインは何百年も変わっていません。ただ色、柄、感触のバラエティーが素晴らしい。私はレザーも単色の皮では人の心を動かせなくても、着物のように原皮に色柄をつけ、時にはデコボコ感を出し、時にはレースでシースルー感を出すという試みをしてみました。

世界中どこにも同じ物がない、チャコ・オリジナルブランドの誕生でした。そして、この商品こそが会社を成長させたヒット商品となったのでした。

稼ぐことを必死にやっていると、自分も含めていろいろなことが変わっていきます。夢中になって忙しくしていると、あまり多くのものは欲しくなくなるのです。どうぞ試してみてください。

私は地雷撤去や東日本大震災のために何度もチャリティディナーを自宅で開催してきました。100人、200人と自宅に招いてディナーを楽しんでいただき、その収益をチャリティ・プロジェクトにあてるのですが、それをうまく回転させていくためには、やはりさまざまな工夫やノウハウが必要です。一つ成功したら、人と人との輪が広がり、子供達の笑顔が広がり、喜びが広がります。お金では得られない素晴らしいものと出会えるのです。

さて、2015年はカナダ新移住者50周年の節目の年です。皆様と共に何か記念になる行事を作り出していきたいものですね。

皆さんは今年、どんな抱負を抱いていますか。大きなゴール、小さなゴール、人それぞれ目指すものは違うと思いますが、一つでも多く達成できますことを心から祈り、応援しています。

【Chakoの格言】 工夫する力があなたを変える!

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Session 16~天敵は幸運を運んでくれる存在

今年は暖かいトロントの秋ですが、少しずつ深まってきました。皆さんはどんな秋を過ごしていますか。秋はアクティブな夏が終わり、いろいろな思考が芽生える季節でもあります。

人間関係も、季節とともに移り変わっている人が少なからずいらっしゃるかもしれませんね。

さて、私と私のパートナーは時々メディアなどから個別にインタビューを受けることがあります。以前、「あなたの天敵をあげるとしたら誰ですか」という質問を受けたことがありました。その時、私たちはそれぞれお互いの名前をあげていました。

ビジネスパートナーとして、またライフパートナーとして長年付き合ってきた相手ではありますが、もともと私たちは敵同士として出会いました。そのせいか、いまだにライバルという意識がお互いにあるようです。

あれは忘れもしない夏のある日。私がヨークビルのブティックに生まれて初めて就職した初日のことでした。何をするのか分からないまま、上司にホテルに行くよう言われた私は、ダウンタウンのあるホテルの入り口で立ち尽くしていました。そこへ、ホテルの前にグレーのリンカーンを横付けにして私の目の前を颯爽と通り過ぎていく男性がいました。それが彼でした。

私が名刺を渡すと、すぐに同業者と察知した彼は、親切心と同情心から、自分のお客様に私のことも紹介してくれたのです。ところが、私には彼のようにお客様を乗せるリムジンなどありませんでしたから、苦し紛れに「皆さん、地元の人になったつもりで地下鉄に乗って私のブティックにいらっしゃいませんか!?」と呼びかけたのです。すると、どういうわけか、そこにいたお客様全員が私についてくることになってしまいました。

まもなく私たちの間で熾烈なお客様の争奪戦が繰り広げられるようになったのは言うまでもありません。

繁忙期が終わる頃、手を組んで一緒にビジネスをしようと声をかけてくれたのは彼の方でした。彼が社長となり、仕事自体はうなぎのぼりでしたが、人間関係は少し違いました。私にはキャリアもスキルもない。さらに英語もできない。だから捨て身になって必死で働くしかありませんが、一生懸命やればやるほど私はなぜか社内で孤立していったのです。そして、私をクビにしろという空気が社内に立ち込め始めていました。

顧客を大切にし、セールスを上げ、業績を伸ばしてきたのは一体誰だったの…。憤懣やるかたない気持ちでいっぱいでした。

そんな四面楚歌の状況の中、たった一人私の理解者がいることを知りました。「一生懸命やっている人を僕は切らない」。それは社長である彼の一言でした。彼は私を切らなかった。天敵こそが、私の一番の理解者だったのです。

そもそも敵とは一体何なのでしょうか。
私は常々、一番の敵は外にあるものではなく、自分の内にあるものだと思っています。恨み、ねたみ、恐れ、おごり、怒り、怠惰…自分の中に沸き起こってくるこれらの思いが、自分を滅ぼす一番の敵だと思うのです。

もしも今、顔を見るだけでもムカムカする敵があなたの前にいるとしたら、喜んでください。その天敵こそが、あなたをこの世で一番成長させてくれる教師なのかもしれません。

私も熾烈な戦いを繰り返してきた一年間は歯軋りをする思いでその時の天敵を見ていましたが、それと同時に、必死になってお客様に向かっていく彼の姿は、世間的にはみっともなく映ったかもしれませんが、余裕風を吹かせてカッコつけている人達に比べると、とても素敵に見えました。

仕事とは四方八方に気を配って、自分にできることは「はい、喜んで!」と身軽に行動するべし、と私は天敵から大いに学んだのです。

ですから、今はこう思います。お互いを認められるのが、本当のライバルではないでしょうか。憎憎しい存在でも、その人がいるから、努力しようと前向きになれる自分がいることに気づくことはありませんか。

後になって、幸運を運んでくれたのは、味方ではなく、実は敵だったということは案外少なくないのではないでしょうか。

あなたには天敵と呼べる存在がいますか。

【Chakoの格言】 ライバルはあなたの一番の教育者!

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Session 15~「ありがとう」の心で生きる

トロントの夏が駆け抜けていきました。私の夏もまた全力疾走でした。

大きなイベントとしては、8月のSupport Our Kids。今年も10人の被災児童を受け入れました。トロントを後にする彼らの顔は、到着したときとは全然違う顔をしていて、私も大きなエネルギーをもらった気がします。

そして、9月には塩沼亮潤大阿闍梨による講演会がJCCCで開催されました。ホノルルでの出会いから7ヶ月後にここトロントで講演会が実現できたことを、来場された方々の笑顔や涙を見つめがら、私も幸福感を味合わせていただきました。

たくさんの出会いがあった夏。読者の方とのEメールを通した出会いもありました。

「どのようにしたら恋愛、結婚が成就できるのでしょうか。何度も失敗しました。恋愛、結婚をしたときが、私のカルマが変わったときだと思うのです」

私はこのメッセージを読んだとき、まず、こんな考えが心に浮かびました。「恋愛、結婚が成就する」ってどういうことなのかしら。

誰かに恋心を持って、相手も私を好きになってくれること?そして、結婚式をして、二人で新婚生活を楽しく過ごすこと?

何度も失敗した、とメッセージにありましたが、私は、その体験の中にこそ大切な宝物が隠されていると思います。

私にとっては恋愛も結婚も、真摯に向き合えば向き合うほど、苦しく厄介なものを痛感させられるものです。誰かに恋をして、やがて深く愛するようになっていくということは、その段階ごとに自分を捨てることのように思えるのです。

これは決して盲目になるという意味ではありません。

「愛する」ということは、ひたすら相手の幸せを考え、願い、行動する、いわば恋愛も結婚生活も、私にとってはある意味、修行なのです。

もちろん苦しいことばかりではありません。泣きたい、痛いという思いの中で、それを耐えた人にだけ喜びやかけがえのない体験がご褒美としてちょっとずつ与えられる、そんなふうに考えます。

嫌だなと思うことがあっても、「はい、喜んでお受けしますわ」と心の中で宣言してみてください。そうすれば、カルマさえ、一日一日を「ありがとう」の心の中で生きてみることで変わると私は信じています。

まずは今日一日を、まわりの方々があなたの笑顔と明るさで幸せになれるように生きてみませんか。

【Chakoの格言】 今日一日を「ありがとう」の心で生きてみよう!

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Session 14~家にまつわる不思議なエピソード

「家」は人と人が生きる場所、交流する場所です。その結果、「家」の中には人間が放つ魂の余韻のようなものが残ると私は信じています。信じているというより、体験して知っている、という方が正しい言い方かもしれません。

「家」にトラブルは付き物ですが、それが思わぬ形で出現することがあります。ハワイで買った家については数々のエピソードがあるのですが、その中から選り抜き(?)を二つほどお話ししましょう。

それは信じられないくらい良い物件でした。立地は最高、窓からは青く輝く海が一望できるのです。その頃、私は足を骨折して、車椅子で移動していたのですが、車椅子を押してもらっていると、どのコンドミニアムのどのコーナーが良い眺望かが手に取るように分かるのです。なにしろ自分は前を向いて歩く必要がないので、高くそびえるコンドミニアムをぐるぐると頭を回していれば良いわけですから。

その目をつけたペントハウスは、南側は全室に広がる海が、東側はダイアモンドヘッドの全景が部屋に入った途端に目に飛び込んでくるという素晴らしい物件でした。
そんな非の打ちどころのない家が、なぜか信じられないような値段で売りに出ていたのです。

これは神様の引き合わせとばかりに購入を決め、その次の冬から待ちに待った楽しいバカンスが始まりました。ところが、なんだか居心地が悪く、夜も眠れないのです。おまけに体が鳥肌が立つほど震えてくるのです。

ここはハワイです。鳥肌が立つほど寒いことなどありえません。まるでアイスストームに見舞われて停電中のトロントさながら、寒くて寒くて眠れないのです。朝日が昇るのをひたすら待ってから起き出して、家中を点検してまわりました。すると、ある場所が悪寒の源泉であることを発見しました。

私は住んでいた家や仕事をしていたオフィスを引っ越しで離れるときに、いつもしていることがあります。それは、壁という壁、コーナーというコーナーに手をあてて、声に出してお礼を言うのです。

「ありがとう、ありがとう、おおかげでこんなに良いことがありました。ここに住まわせてくれて幸せでした。ありがとう、ありがとう」。

そうすると、家が喜んでくるのが手に伝わってきます。今回に限っては、その逆のことをしました。

「これからここに住まわせていただきます。どうぞよろしくお願いします。ここではいろいろあったのですね。大変でしたね。それでも私達はここに住めて本当に喜んでいます。これからは、私達がここにいられることを毎日感謝して、訪れる人々と一緒に楽しく幸せな時間を作って行きます。ありがとうございます。ありがとうございます…」

悪寒の源と思われる場所を中心に、愛情を込めて声に出してそう祈りました。
その夜からは、あの眠れないくらいひどかった悪寒がぴたりと治まったのです。

住む場所との出会いは「縁」だと思います。その出会いを良いものにするか、不満を抱えて付き合い続けるかは自分次第です。やはり、家とそこに住む者の関係は、どこか恋愛に似ているような気がします。

そこに住んでいるからこその出来事があなたに訪れるでしょう。それをどんな風に受け止め、どうやって付き合って行くか。前回エピソード13にも書かせていただきましたが、そこから運が開けて行くこともあるのです。

もう一つのエピソードは、人間がかかわる厄介なものでした。とても気に入って購入した不動産を貸すことに決めて、テナントを入れていました。当初はうまくいっていたのですが、あるテナントがひどいトラブルメーカーで、最終的に裁判沙汰になってしまったのです。

なかなか決着がつかず、経済的に大きな損失が出てしまいました。でも、もうこれ以上の最善策はないと腹をくくりました。彼らの心に平安が訪れますように、とひたすら祈るしかありませんでした。そして、そのテナントに引っ越してもらった後は、二倍以上の家賃を払ってくれるテナントが入ってくれたのです。

事がうまく運ばない、つらい思いをさせられる…、そんなことはしょっちゅうあります。けれども、それで終わりというわけではありません。最後まであきらめずに忍耐強く付き合い続ければ、最後にはプラスの着地点が待っていることもあるのです。

【Chakoの格言】 住まいを磨いて、心の扉を開放しよう!

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Session 13: 強運をつかむための住まい選び

その昔、「家」というのは家族が住むためだけのものではありませんでした。大切な相談事やおおきな商談はその人の家を訪れて行われ、そこには濃密な時間が存在していたものです。

私が子供の頃も、今日は大事なお客様がいらっしゃるというお達しのある日には朝から独特の空気が流れ、重々しい話し合いの後は必ずといっていいほどお客様と夕食を共にし、お酒が進み、夜が更ければ、そのまま泊まっていかれることもしばしばでした。

家というのは、そんなふうに人と人とが交流し前進していくための場でもあるのです。この考えは私の中に深く根ざしています。

私がカナダに来たばかりの頃は牢屋のようなベースメントのアパートに住んでいたことはセッション4で書かせていただきました。

「家は住む人を表す」とはよく耳にする言葉ですが、真にその通り。あの頃の私は絵に描いたようにどん底でした。が、鉄格子にリボンのデコレーションをしてみたり、楽しく暮らそうという工夫はしていました。

その後、ベースメントを出て、低所得者住宅、タウンハウス、オンタリオ湖半のコンドミニアム、そして、かつて家政婦として働いたことがあった高級住宅街フォレストヒルズで一軒屋を持つまで、家とともに成長していったと言っても過言ではありません。

私にとって家は不思議な魅力を持っています。良い家に住めば強運をつかむことができるとさえ思っています。良い家に巡り会うことは、最愛の恋人にやっと巡り会えたような喜びがあります。フォレストヒルズの家はまさに一目惚れでした。

もともと不動産に興味があったことも手伝って、いろいろな物件を見てまわったりするのですが、住んでから分かる家のクセのようなものもあります。でも、災い転じて福となるかどうかは自分の手にかかっています。

あなたが今住んでいる家は、いつでも人が呼べる状態ですか。小さくてもいい、ロケーションが多少悪くてもいい。訪れた人が快適に過ごせる空間がそこにありますか。

今、あなたに与えられた小さな空間を心を込めて整理し、自分自身が楽しいな、好きだなと思える場所作りをしてみましょう。あなたに愛されている空間であれば、きっとあなたに癒しのひとときをもたらしてくれるはずです。

私は自分が育った家のように、いつでもたくさんの人を招くことができる明るくて賑やかな家にしたいと思ってきました。お金をかけなくても工夫すれば美味しい料理だっていくらでも作れるものです。そして訪れた客様たちと飲み、語らい、そんなかけがえのない時間を満喫するのです。

住むところを起点にして人生は広がっていきます。それは、あなたの工夫次第。さあ、家の中を見回してみてください。そこに投影されているのはどんなあなた自身でしょうか。

【Chakoの格言】 住まいを磨いて、心の扉を開放しよう!

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Session 12: 愛する人になりなさい

皆さんは今、恋愛、してますか?

人の数だけいろいろな恋愛があります。私の恋愛はといえば、たとえていうなら交通事故のようなもの。出会いがしらに起こってしまう、どうしようもないものです。

こんな恋愛をしたい!とか、こんな人がいい!などと理想を思い描いたことはただの一度もありません。そもそも世間一般の理想というのは、自分にとっての本当の理想ではないし、大体、恋愛は一種の錯覚です。だけど、その錯覚は本当に素晴らしいんです。一時的には…。

錯覚だから、いろいろギャップも出てくるのです。身を切るようなつらさが出てきたり、逆に痛めつけてやろうかと思ったり、挙句の果てに、もう恋愛なんてしたくない、なんて思うのですが、錯覚の素晴らしさゆえにやめられない。

許せないことも出てきます。そんなとき、まずやらなければならないのは、リセットすることです。それは自分を許し、解放することです。そして、相手を許すことです。とはいえ、そう簡単にはできませんよね。

私は厳しく悲しい恋愛状況の時には、「この状況を与えてくださって、ありがとう」と言ってしまうのです。まず空に向かって「許せないこともある、つらいこともある、でも、私はすべてを許しました。なぜなら、この状況が通過しなければならない私の修行なのです。ですから、そのことを感謝します」と、一人で声に出して祈るのです。

それでも、消化できない感情は体のどこかに残るのでしょう。私は毎年、健康診断の最後に精神カウンセリングを受けています。そのときに、いろいろなことを話すのですが、最初の5分以降はもう泣きっぱなしです。もう、わんわん泣いてしまいます。いろいろな感情が涙と一緒に後から後からこみ上げてきますが、なるがままに任せます。その間は、もう一人の自分がそっとその様子を見守っています。これは、まさに心の老廃物を外に押し出す作業。カウンセラーには申し訳ないのですが、セッションが終わる頃にはなぜか心晴れ晴れ、本当に気持ちがスッキリしています。

私は、愛するというのは感情ではなく、行動であると信じています。精神的に落ち込むというのは感情ですが、それに対して自分の感情とは別に口に出して、すべてのことに「ありがとう」と言うことは、ドロドロした感情から救い出してくれる行動力なのだと実感しているのです。

人を愛することはやめられません。私は、愛されることより、愛することの方が自分を強くすると思っています。人が誰かを愛しているという確固とした気持ちに勝るものがあるでしょうか。

愛情の反対は「憎しみ」ではありません。「恐れ」です。「恐れ」が芽生えると、怒りや痛みが起こるのです。

愛する人になること、覚悟もいることですが、誰かを心から愛している人は本当に美しいなと思います。愛することは、誰も介入することのできない、あなたを輝かせてくれる、エネルギーなのです。

【チャコの格言】”愛するエネルギーで「恐れ」を消し去ろう!”

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Session 11: 主婦は家庭のナンバー2

2014年、年が明けて1ヶ月が過ぎようとしています。皆さんの新しい一年はどんなふうに始まっていますか。私は今年も心の信じるままに走り続けていきます。もちろん、「ナンバー2」として。

「ナンバー2」という言い方は、ビジネスや政治的なイメージがありますが、私は主婦だって家庭の「ナンバー2」だと思っています。

もちろん男性が主婦の仕事を担う場合もあるでしょうし、一人で主婦業も兼業でこなしている方もいるでしょう。

もし主婦業を経験したことがないとうい御仁がいましたら、是非1週間、いいえ、3日でもいいですから、やってみることをお勧めします。主婦というのは、人目につかないところで実に多くの仕事を日々こなしているもの、それを知るには体験してみるしかありません。

さて、どんなに立派な土台も案外わずかな歪みや隙間であっさり倒れてしまうもの。「家庭」も然りです。それを支えていくにはさまざまなメンテナンスやアクションが必要になってきます。それには先を見越す目を持つことが大切です。唐突に起こるいろいろな問題を次々に解決していく、これは主婦の醍醐味でもあります。

「玉の輿」とうい言葉がありますが、あれは実際には逆の場合が多いのではないかと思います。男の甲斐性で女が楽できるなんて、現実的には夢物語ではないでしょうか。男の甲斐性は、女がいかに「ナンバー2」として暗躍しているか、なのです、本当は。

もちろん一人で突っ走ってもうまくいきません。「ナンバー2」の最大の武器はまわりの人たちの長所をしっかり把握しているということ。細かいことに気を配りつつも、家族の一人ひとりの長所を生かしつつ暮らしていると、毎日が楽しくなっていきます。

怒るときはとことん怒るけれど、ほめるときは天に届くまでほめる。そんなメリハリのある毎日を作るのも「ナンバー2」の役目です。

人は皆、何かの役割を担っているもの。あなたは自分の持ち味を最大限に発揮できる場所で生きていますか。

【チャコの格言】”家庭でも自分の持ち味を最大限に生かそう!”

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Session 10: ナンバー2という生き方

2013年も終わりに近づいてきました。一年のうちでも特にこの時期は心せわしくなり、気持ちの余裕を失いがちです。師走でなくとも走り続けているという人もいるかもしれませんね。思えば、私もそんな一人でした。

私は、トップに立つよりも「ナンバー2」として走り回る方がおもしろいと感じるタイプの人間です。会社でいうなら、社長ではなく、副社長または専務のような存在。実際、私は長年にわたって副社長という立場で仕事をしてきました。

なぜ「ナンバー2」がおもしろいかというと、それは「現場で戦えるから」の一言に尽きます。私は戦略を練ったり、数字をはじき出したり、トラブル解決に奔走したり、次のゴールを考えたりすることが大好きでした。こうと決めたらとことん実行する、そんな私の仕事に対する猪突猛進的な姿勢を信頼して任せてくれたのが、社長だったジェームス松本という人です。

彼が私のボスでなかったら、また違った人生になったでしょう。言い換えれば、「ジェームス松本」という一人の人間が私のプロジェクトだったといえるのかもしれません。

私が現場の細かい部分を引き受けた分、社長は社会貢献などの活動に時間を割くことができました。仕事は常に社会とつながっていますから、社長が社会でステイタスを得ていくことは会社にとっても大きなプラスとなりました。

さて、「ナンバー2」と聞いて、皆さんは何をイメージしますか。
社長の右腕、ベンチを暖め続ける二番手投手、お芝居の主役の引き立て役、自治体の補佐役、金メダルに手が届かなかったオリンピックの銀メダリスト…

「ナンバー2」は黒子のような地味で目立たない存在」と思う方もいらっしゃるかもしれません。確かにスポットライトからちょっぴり外れたところにいる存在です。でも、ヒーローたちは「ナンバー2」の存在なしにトップとしての輝きを放つことはありえません。

ある意味、特別なスポットライトの下にいるのが「ナンバー2」だと私は思っています。

オリンピックで世界の頂点に立った金メダリストは、銀メダリストの写真を見ながら毎日の練習を続けるという話を聞いたことがあります。

野球場のマウンドで観衆の期待を一身に背負って立つエースの四番も、お芝居の主役も、学校の生徒会長も、町内会の会長さんも、「ナンバー2」の支えや刺激があるからこそ、その手腕が発揮できるのです。

「ナンバー2」がトップの、いいえ、すべての人たちの成功の鍵を握っていると言っても過言ではありません。そして、トップと二番手の相性が良ければ、それはもう最強なのです。

右も左も分からないまま、無我夢中で仕事を始めたとき、大きなノルマを背負ってプレッシャーと戦いながら毎日を過ごしていたことがありました。そのとき、私は社内外でいろいろな非難を受けていて、誰もが私を切るべきだと社長に助言していました。日本での営業から戻り、まわりからいつものように責められ始めたとき、社長は皆の前ではっきりこう言ったのです。
「僕は彼女の努力に感謝しているし、彼女を切るつもりもない」。

見ていてくれた、そして認めてくれていたという喜びをあんなに感じたことはありませんでした。その後もいろいろな苦難がありましたが、そのときに生まれた信頼関係は揺らぐことはありませんでした。

もちろん意見がぶつかることもあります。しかし、それはあくまでも同じ船に乗っている者としてのぶつかり合いですから、土台はますます強固になっていきました。

自分を認めてくれる人と出会えたことは幸せなことでした。でも、それは単なる偶然だったのでしょうか。私は自分の武器とも言える「ナンバー2」としての生き方を貫いたからこそ生まれた関係のような気がしています。そして、それが最終的には私自身をも輝かせる結果となったのです。

皆さんは、どのポジションでいることが一番自分を輝かせるか、知っていますか?

【チャコの格言】”自分が一番輝ける場所でベストを尽くそう!”

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Session 9: 人生道場で見つけた「四捨五入」の法則

去る10月27日、日系文化会館で「なでしこDAY」が開催されました。トロントおよびその周辺地域に住む日本語を話す女性達が一堂に介する、これほど大きなイベントはこれまでになく、関係者を含め約300人が集まった会場は「今日は一日思いっきり楽しむぞ!」というポジティブなエネルギーにあふれていました。

セミナー会場で最初に開催されたのはパネルディスカッションでした。客席はすべて埋め尽くされ、立ち見の方も見えました。私はそのパネラーの一人として、書家の前田典子さん、資生堂カナダの西田智津子さんと共に、「美しく輝いている人生」というテーマのもと、いろいろなお話をさせていただきました。

そこでもお話させていただいたのですが、私の人生のキーワードは「人生道場」。
人生は学びの場です。楽しいこともあれば、苦しいこともあります。それらすべてに感謝して生きていくと、人は美しく輝いていくものなのです。

仕事を持ちながら、子育てをしている女性にとって、理解を得られないことは決して少なくありません。自分の言動を批判されたり、理不尽なことを言われたり、されたり、心の中で割り切れないことは生きていると本当にたくさんあります。

私は一日の終わりに、そういったことをすべて洗い出して、それらに向かって「ありがとう!」と言います。私に嫌なことを言った人、批判した人に、「ありがとう!」と心から言ってしまう。そうすると、不思議なことに囚われていた自分が解放されるのです。泣いて、怒って、そして、最後にいつも「ありがとう!」の笑顔で締めています。まさにこれが私にとっての「心のエステ」といっても過言ではありません。

不安や心配、ありますよね。不安とういのは、自分を信用していないから出てくるものです。不安は恐れと同じもの。恐れは愛情が不足していると出てきます。自分の中に、ものすごく大きな愛があれば、仕事であろうと、恋愛であろうと、不安ではなくなるものです。

不安になったとき、「もしかすると、今、置かれている状況はうれしいことなのかもしれない」と想像してみてください。「新しい何かを始めるチャンスかもしれない」、「この状況に置かれたのは私が選ばれたからだ」、そんなふうに考えると、別の世界が見えてきませんか。

私は悩むより行動が先に出るタイプの人間ですが、それでも眠れないほど考え込んでしまうことが多々ありました。どうしたらいいんだろう、私はどうすべきなんだろう。そうして、人生の選択をしていくための最高の方法に出会いました。それは名付けて「四捨五入の法則」。

“We can’t have everything.”
これは大橋巨泉さんの持論です。「全部を手に入れられると思ったらいかん」ということなのだそうです。

仕事をしていると、常に決断を迫られます。ある程度の責任を持つようになると、その頻度はどんどん多くなります。遅いスタートながら、右肩上がりに成長していった私のビジネスはそんな決断、決断の連続でした。

ストレスでがちがちになっていた頃、いつも私の話を聞いてくれていた友人がこんなことを言いました。「もうそれは四捨五入するしかないよ」 「そうか!」と私は思いました。その手があるのか、と。

二つの選択肢があって、どちらも欲しいけど、どちらかを選ばなければならないとき、四捨五入して進むべき道を選ぶのです。迷って、それが「5」に満たないなら置いておきました。経験を重ねて直感を磨きつつ、これを繰り返し、結果を出すと、それまでになかった自信もついていきました。今でも私は迷ったとき、「四捨五入してみると、どうなるかな」と考えます。これ、結構つかえます。

【チャコの格言】”人生の選択に迷ったら「四捨五入」してみよう”

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Session 8: 英語を上達したいあなたへ

1年かけて計画してきた「Support Our Kids サマーホリデー・イン・トロント」というチャリティ・プロジェクトがこの夏、無事に終了しました。これは東日本大震災で被災した学生10名をカナダに招待して、ホームステイやサマーキャンプに参加する中でさまざまな体験をしてもらおうというプロジェクトです。日本の特定非営利活動法人「次代の創造工房」が主宰するプロジェクト「Support Our Kids」とトロント新企会がタイアップし、在トロント日本国総領事館後援、トロントのフォレストヒル・ロータリークラブ、日系文化会館協賛のもとに活動、実現しました。私はその実行委員長として奔走してきたのですが、諸々の事後処理や連絡を済ませて、やっと今一段落ついたところです。

8月5日、一行が到着直後に日系文化会館で行った歓迎会では参加学生一人ひとりが震災体験を英語で語り、私たちを驚かせてくれましたが、滞在中は「言葉の壁」を嫌というほど感じたようで、送別会では「もっと英語で自分の気持ちを伝えたかった」と全員が口をそろえて話していたほどした。英語!英語!英語!と彼らが口にするたびに私の心にはこんな思いがよぎりました。
「私が学生だった44年前と全然変わっていないんだなあ」

当時のキャンパスではESS(英会話部)が一番人気。私は団塊の世代のせいか、人が群がるところにはまったく興味が持てません。そんな私が一目惚れして入ったのは、廃部寸前の能楽部。何年かぶりの新入部員だった私は、言葉巧みにまわりをひきずり込み、その甲斐あって能楽部はどんどん大きくなっていきました。京都で著名な河村能舞台から先生が指導にいらしてくださり、毎日一生懸命練習に励んだものです。

しかし、学生能楽であっても舞台で能を上演するには40数年前でも最低100万円かかりました。ですから、弱小能楽部の私たちが舞台に立つなど夢のまた夢でした。とはいえ、そこで諦めることができないのが私の性。まず2年に1回公演を実現させる目標を立てて、学園長に直談判に行ったり、チャリティ活動を始めたり、とにかくできることをどんどんやっていきました。

結果、1年のときに公演を実現させ、2年には部長となり、我が部は学校を引っ張るくらいの勢力を持つまでに成長したのです。

こうして私は、道具である言葉を学ぶ前に、日本人として学ぶべきは自らの国の素晴らしい文化であると考えて、華道、茶道、能を学んでいきました。

研修科に進み、修了間近になったころ、実家に帰りたくなかった私は大阪万博での人材募集に応募し、海外のVIP対応のコンパニオンをすることになりました。採用試験には身辺調査が行われ、当然ながら英語力も審査されました。大学教授からは「この学生は、英語は全然ダメです!」といらぬ太鼓判を押されたにもかかわらず、幸運にも採用の返事を受け取りましたが、この一通の採用通知が私をカナダへ導いていくことになるとは、このときは知る由もありませんでした。

前夫とはこの大阪万博の最終日に出会い、彼の留学に伴い翌年にはトロントへ向けて飛び立っていました。そのうえ、実は今の夫も大阪万博で訪れたカナダのパビリオンで移民のパンフレットを手にし、カナダ移住を決意していたのです。カナダは1965年より戦後の新移民を日本から受け入れ始めていました。運命とは本当に不思議なものです。

さて、大阪万博で使った英語は迷子の案内をしたくらいで終わってしまいました。翌年、カナダに来てからいかに英語で苦労したかは Session1 Session2でお話しましたが、私は日本人として生まれてきたのだから、外国人に紹介し、シェアできるものは日本文化だと考常々思っていました。

そして、私には何年も胸に秘めていた夢がありました。それは能公演をトロントで開催することでした。もちろん学生能ではなくフルの公演です。何の足がかりもない夢でしたが、種を蒔きつつビジョンを持ち続けていました。そうしていたら、ある日、実現のチャンスが訪れたのです。

2006年、ROM(ロイヤル・オンタリオ博物館)に新設された高円宮ギャラリーのこけら落としに何か日本文化を象徴することができないかという話が持ち上がりました。山口総領事(当時)とお話しする機会があったときに、「こけら落としといえば能以外にないでしょう」と提言させていただくと、「最低1億はかかる能公演は予算的に厳しい」というお返事でした。「では、その3分の1以下の予算ならどうでしょう」と伺うと、「それは可能ですか」ということになりました。

学生時代の能楽部の恩師、河村能楽堂一門の協賛を得、元カナダ首相のジャン・クレティエン氏や当時のカナダ総督ミカエル・ジャン氏はじめ多くの著名人の方々が足を運んでくださいました。その後、一門はオタワ公演も成功させ、カナダに能旋風を巻き起こして帰っていったのです。

英語で何を伝えたいのか。本当に大切なのはそこだと思います。海外に出たとき、外国人から質問されることの多くは日本のことです。あなたは日本のどんな素晴らしさを伝えることができますか。日本には海外に誇れる文化がたくさんあります。英語!英語!という前に、まずそこに目を向けてみてください。国際交流への道はそこから広がっていくのです。

【チャコの格言】”伝えたいという情熱が言語の壁を越えて会話を生む”

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Session 7: 人生の選択のコツ

今年のトロントの夏は熱波が来たと思ったら、記録的な豪雨に見舞われて大きな被害が出たり、そうかと思うと急に涼しくなったりと先が読めない不安定な毎日ですが、皆さんはどんな夏をお過ごしでしょうか。

休暇をとってリフレッシュをする人が多い一方で、トロントのお天気のように不安定な心を抱え、人生に悩み、一筋の光を探している人も決して少なくないようです。先日、カナダ在住の読者A子さんからこんなメッセージが届きました。

『前略 ブログを拝見してメールさせていただきます。私は、ヨーロッパ系カナダ人の夫と7年間暮らしを続けてきましたが、最終的な人生のゴールや文化の違いから信頼関係が揺らぎ、離婚という選択することに決め、現在、離婚成立に向けてプロセス中の40代の女性です。結婚当初、夫に何かあったときのためと思い、資格を取っていたので、今はそれを生かして美容関係の仕事で生計を立てています。子供はおりません。もともとカナダに来たのは夫と結婚するためでしたので、離婚を決めたとき、カナダにいる理由がなくなりました。しかし、その後、日本に半年ほど帰国したとき、まわりからさまざまな精神的苦痛を受け、カナダで一人生きていこうと考えました。ただ、年齢的なことを考えるといろいろ難しいと思うことがあります。実は目指していることもあるのですが、40代で学生に戻る自信もありません。そこで質問なのですが、いろいろな選択肢の中から何か一つを選ぶとき、何を一番に考えるべきでしょうか。家族?自分の夢?最終的には自分で決めなければならないことだと分かっていますが、アドバイスをいただければうれしいです』

A子さん、いつもブログをお読みいただき、ありがとうございます。あなたは、本当は自分の中で結論がもう出ていますね。一つは「自立して生きていくこと」。強い意思を感じます。そして、もう一つは日本で生きていくのか、カナダで生きていくのか、ということですが、あなたにはカナダしか見えていないと思います。そうなると、「カナダで自立していくにはどうするか」ということになりますね。

ご結婚されたときに将来に備えて資格を取られたことは賢明でした。それで今、生計を立てていらっしゃるのはとても立派です。さらに夢もお持ちです。

家族のため、自分の夢のため、人は一歩踏み出すときに何かしら理由が必要なのかもしれません。でも、そこで一番大事なことは「人としてどうやって生きていくか」ということです。それには、難易度とか自信のあるなしは関係ありません。

夢は「目標」として置いておいて良いでしょう。今は是非、以下のようなことに重点を置いてみてください。
「今日、私は一生懸命できたか」
「今日、私は人のために役に立てたか」
「今日、私はお客様に喜ばれたか」
今日一日あなたがどのくらい必死に生きたかが、将来につながっていくのです。

私は35歳で仕事らしい仕事を始めました。子供がいました。何の経験もなく、A子さんのような資格やスキルもありませんでした。だから、もう捨て身になるしかありませんでした。

私はただ、社会に出て一人前に勉強したかったんですね。そんな私がいつも考えていたのは「雇い主に喜ばれる働き手になりたい」「お客様に良いサービスを提供したい」ということ。一日の終わりにはいつも、「私は今日、心底お客様のために働いただろうか」と振り返っていました。

お金にもこだわりは持ちませんでした。少ない給料はすべて当時の主人に渡して、余計なことは考えませんでした。キャリアを作るために人の倍働く、損得を考えない、お金はいらない、そうやって5年が過ぎたとき、気づいたら私は会社の副社長として多くの部下を持ち、采配をふるうようになっていたのです。

嫌なことや泣くようなことはたくさんありました。そんなときは女優になったつもりで、お客様の前に出るときは最高の笑顔を見せる、そうやって自分を鍛えてきました。

5年、いいえ3年そうやって続けていけば、A子さん、あなたは悩む必要がないくらい頭角をあらわすと思いますよ。心配せずにそうやって続けていけば、3年で今の不安は消えると思います。年齢は問題ではありません。体力もついてきます。

そして、どんなときでも、いつでも喜んでいましょう。そういう人は最強です。

【チャコの格言】”女優になったつもりでいつも最高の笑顔を見せよう”

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Session 6: 子連れ家政婦デビュー

あの日、私の魂に革命が起こって以来、私は身も心もさらにリフレッシュし、再び相変わらずの超多忙な貧乏生活という怒涛の日々を送っていました。

そんな母の苦労を知ってか知らずか、娘は元気にすくすくと成長しています。彼女が一人で歩けるようになった頃、私もそろそろ働きに出なければと思うようになりました。でも、娘をベビーシッターに預けて採算の合う仕事はなかなかありません。そんな時、知人が「ハウスキーパーを探している共働きの夫婦がいる。交通費が出て、子連れOK、1回50ドルになるよ」というではありませんか。早速、そのご夫婦の家で働かせてもらうことになりました。ハウスキーパーの主な仕事はお掃除。要するに家政婦さんです。そんなわけで、私の子連れ家政婦デビューが決まったのです。

長女は幼い頃から聞き分けがよく、手がかかりませんでした。「お母さんが仕事をしている間は、この椅子に座って、この絵本を読んでいてね。そして、どんなお話だったか、ランチのときにお話しててね」と言うと、自分で椅子のところにトコトコ歩いて行き、大きな絵本を両膝の上に置いて、小さな手で大事そうに開いては一生懸命読み始めたものでした。

その家では私たち2人のランチ用食材を用意してくれていました。食パンとベーコンとトマト。そんな簡単な食材ですが、我が家ではまず買ったことがありません。

なにしろ、スーパーでレタスの外側の葉を惜しげもなく捨てているのを立ち止まってじっと見ていると、店員さんが「ウサギを飼っているなら持っていっていいよ」と言われるままにもらってきたり、誰も買わないようなスジ肉を山盛り買ってきてコトコト長時間煮てはいろいろな料理を作って食べたり、そんな生活だったのですから。料理はまさに工夫の産物と腕を磨いたのもこの頃でした。

そんなわけでしたから、仕事先では「こんな美味しいものは食べたことないね!」と言う娘と二人でランチタイムを楽しんだものです。お昼に意気揚々と絵本の物語についておしゃべりしていた娘も帰りのバスの中では疲れて眠ってしまうのが常でした。

家政婦を雇うということは、他人を家の中に入れることです。まったく知らない人より、誰かが知っている人の方がいいに決まっています。一人から信頼を得ると、その人が別の人を紹介してくれる、そんな風にして私の仕事はどんどん増えていきました。ほとんど週5日間、口伝えで紹介していただいた方々の家々に通うことになりました。

ある日、私はトロントの高級住宅街フォレストヒルの大きな邸宅で働くことになりました。この時は、まさか15年後に自分がこのエリアに住むなどとは夢にも思っていませんでした。

医者や弁護士などが住むこの界隈には、カナダの大自然と背中合わせに瀟洒な豪邸が建ち並んでいます。私はそんな豪邸の主に雇われて、いつものようにトイレの便器を「キレイになれ!」と念じつつ、せっせと磨いていました。そのとき、ふと思ったんです。

「あぁ、私はこの家の便器を磨くためにカナダに来たのかもしれない」…

私は今、トイレを磨いているけれど、本当に磨いているのは私自身の魂なんだと感じました。すると、とても嬉しい気持ちになり、一人微笑んでしまいました。日本にいたら絶対にこの仕事はしていなかった、それは確かです。そして、「私はカナダで生きていくんだ」、そう腹が据わったことを今でも鮮明に覚えています。

【チャコの格言】”トイレ掃除は心磨き”

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Session 5: 愛と光の初体験

2ベッドルームのオンタリオ・ハウジング(低所得者用住宅)に移ったものの、そこにはこれまで出会ったことのないような様々な住人たちがいて、それはそれで波乱万丈。私の極貧生活も相変わらずでしたが、そんな暮らしも板についてきました。

そうこうしているうちに、ヨーク大学に留学していた夫が無事、優秀な成績で卒業することが決まりました。万歳!もう本当に心から万歳!です。これからは人並みの生活ができるんだ、そう信じていた私の心は期待で膨らむばかりでした。でも、現実はそう甘くはなかったのです。

カナダでは、仕事の採用に際して必ずカナダでの経験を聞かれます。どれほど履歴書を送っても、やっとの思いでこぎつけた面接でも、「カナダでの経験」という一項目がネックになり、不採用の返事を虚しく受け取る繰り返しでした。

卒業して半年が過ぎました。何も決まりません。さらに、何の進展もないまま季節が変わり、やがて一年が経とうとする頃、私の心は「不安」という真っ黒な塊に支配され、ただ落ち込むばかりの毎日を過ごすようになっていました。

多忙もいとわず嬉々として働き、貧乏生活を謳歌していた私。それもこれも、こんな大変な生活は夫が卒業するまでのこと、いずれ終わることと考えていたからでした。でも、現状は想像とはまったく違う方向に進んでいます。何も変わらないまま、朝が来て、夜が来て、また朝が来る、そんな繰り返しを重ねるうちに、育児と仕事で疲れきった体を抱えて、どうやって前を向いたらいいのか、明日の一歩をどうやって踏み出したらいいのかと昼夜を問わず暗闇の中にいるような気分で、生きていく気力さえ失われていくようでした。

その頃の私は、まわりを責めることで自分も惨めになり、その堂々巡りの中でとぐろを巻いている、そんな逃げ場も出口も失った状況に陥っていたのです。

このままではいけない。このままでは、せっかくカナダに送り出してくれた両親にも会わせる顔がないとずっと悩んできましたが、もう限界、もうどうしてもこれ以上は耐えられないと思い、娘を連れて日本へ帰ろうと決心しました。そして、私は受話器をとり、航空券をとるため旅行会社へ電話をかけました。数回のコールの後、私の耳に「本日の営業は終了しました」という機械的なアナウンスが聞こえてきました。気が削がれてしまった私は、電気もつけず、ただ暗いベッドルームの床にへたりこんでいました。

どのくらい時間が経ったでしょうか、ふと本棚の隅にある聖書が目に留まりました。不思議なのですが、まるで暗転の舞台に一筋のスポットライトがそこにあたっているように見えました。なんでこんなときにこんなものが目に入ってくるのか、腹立たしい気持ちが沸き起こりました。こんなときに、こんな本を開いたところで何にもならないじゃないか、そう思うと同時に、「ああ、そういえばこの本に書いてある話なら一つだけ知っているな」と思っていました。それは「放蕩息子」というたとえ話です。

『ある金持ちの男に2人の息子がいました。ある日、弟の方が父に、「お父さんが元気なうちに自分の財産の取り分をほしい」と言い出し、父は希望通りに財産を与えました。弟はすぐに旅に出て放蕩をつくし、散財します。お金のあるうちはたくさんの友人が集まってきましたが、お金が底をつくと友人は次々に去って行きました。やがて飢饉がきて、弟は空腹のあまり家畜の豚が食べている餌に手を出そうとしてハッと我に返ります。もう息子と呼ばれなくていい、使用人としてでもいいから父の元に帰ろうと思い、トボトボと家路に向かいました。遠くの丘に我が子の姿をみとめた父は転げるようにして駆け寄り、「よく帰ってきてくれた」と抱き寄せて家に迎え入れ、「一番いい羊をしめて料理するように」と言いつけます。そんな父に兄は「弟は放蕩の限りをつくしてきた。私はあなたに仕えて毎日重労働をしてきたのに、これでは不公平ではないか」と不満をぶつけました。しかし、父は「この子も私の愛する子。死んだと思っていたのに生きて帰ってきた。あなたはずっと私といたではないか」といさめたのでした』

こんな話の内容を思い出しながら、この分厚い本の中の一体どこに書いてあるのか分かるはずもないな、と思いながら、無意識に聖書を手に取り、本を開きました。すると、そこは紛れもなく新約聖書ルカの福音書15章の放蕩息子の話が書かれたページだったのです。

そのページの文字を目で追い始めると急に涙があふれてきて止まらなくなりました。嗚咽は号泣になり、私は床につっぷして、生まれて以来こんなに泣いたことはないというほど声をあげて泣いていました。それは悲しみや苦しみの涙ではありませんでした。生まれて始めて愛情に満たされていることを実感できた瞬間に湧き出た喜びの涙だったのです。

たぶんこの体験は時間にすればほんの数分、いえ数十秒の出来事だったかもしれません。でも、私には長い間ずっと待ち続けていた刹那に思えました。暗闇の中に確かに存在していた一筋のまばゆい光、それは一生忘れ得ない私の宝物となりました。

夢物語とお思いですか。でも、不思議だけれど、とても自然で必然的なこんな体験をしている人は案外少なくないのではないでしょうか。とにかく、この体験は私をすっかり変えてしまいました。私はあの瞬間、本当に生まれ変わってしまったのです。

【チャコの格言】”心の革命はどん底の時にやってくる!”

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Session 4: 地下室からの脱出

今でこそ、「海外で子育て」ブログが何百とあり、情報もあふれるほど手に入る世の中になりましたが、私が母になった時代にはインターネットも携帯もありません。頼りは日本から送ってもらった1冊の育児書だけでした。

とにかく水分をとれば母乳は出るだろうと考え、私はひたすら飲みまくり、紙おむつは使わず布おむつで通し、瓶詰めのベビーフードも買わず、お風呂は当時住んでいたベースメント・アパートにはありませんでしたから、キッチンのシンクで入れていました。

さらに、なんとか少しでも現金を稼ごうと、ダウンタウンの日本食レストランでウェイトレスとして働き始めました。

赤ちゃんにミルクをあげてから急いでダウンタウンまで出かけるのですが、当時住んでいたのはフィンチXダファリンの辺り。ダンダスXスパダイナにあるレストランまではバスをいくつも乗り換えて、片道約1時間半かかります。労働時間より通勤時間の方が長いという効率の悪さでしたが、とにかくやるしかない!とふんばりました(当時、地下鉄はヤング・ライン1本のみで、終点はエグリントンでした!)

カナダに来て以来、レストランで食事をすることなどなかった私は、いきなり仕事でお酒のオーダーまでとらなくてはなりません。分からないので、とにかくお客様の言った言葉をオウム返しにバーテンダーに伝えます。

たとえば、お客様から「グラスホッパー」と言われます。「い、いなご?」そんな飲み物、あるはずない!と思いながらも、バーテンダーに恐る恐る「グラスホッパー…?」と伝えると、「OK!」と軽快な返事が返ってきます。そして、心底面食らいながら、「グラスホッパー」をテーブルに運ぶ、そんな繰り返し。そのほか、「オールド・パー」など、まだ若かりし頃の私は、なんて不思議なネーミングなんだろうと驚いてばかりでした。そして、その時、発見したことは、「英語って、オウム返しに言えば通じるんだな」ということ。

私がそんなふうに奮闘している間にも、娘はすくすくと順調に成長していきました。しかしながら、窓には鉄格子がはまった暗いベースメントでの生活は、とにかく狭くて息苦しく気分が晴れることはありませんでした。

そんなある日、ヨーク大学の学生の知り合いが、オンタリオ・ハウジング(低所得者用住宅)のことを教えてくれたのです。「あなた達なら、申し込めば絶対に2ベッドルームを与えてくれるはず!」と力説してくれました。その言葉を信じて、早速手続きをしましたが、1ヶ月待っても、2ヶ月待っても、3ヶ月待っても返事は来ません。

「もしかしたら2ベッドルームのアパートに引っ越せるかもしれない!」という期待はあまりに大きく、遂にひたすら待つだけの日々に耐えられなくなりました。意を決した私は、娘を抱いてオンタリオ・ハウジングのオフィスに乗り込んだのです。

夫が学生なので、私が一生懸命働いても、到底、普通のアパートに住めるような経済力がないこと、現在の住まいはベースメントで窓も開けられず、赤ちゃんに劣悪な環境であること等をつたない英語で切々と担当の女性に話し始めました。話しているうちに、ふいに涙がはらりとこぼれ、その涙は後から後からまるでせき止められていたダムが決壊したようにとめどなくあふれてきて止まらなくなってしまったのです。こうなると、もう言葉になりません。私はただ嗚咽を繰り返すだけです。

驚いた彼女は、「すぐに担当官を現状視察に行かせましょう」と約束してくれました。そして、なんと翌日、担当官が訪ねて来たのです。その2週間後には正式な通知が届き、本当に2ベッドルームのアパートに移ることができました。

「カナダって、なんて優しい国なんだろう」
私のカナダに対する印象が大きく変わった出来事でした。こうして、感謝感激の中、新居への引越しが決まったのです。

【チャコの格言】”英語が下手でも相手を説得する方法はある!

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Session 3: そして、娘が生まれた

鈴鹿おろしの厳しい風を浴びながら、母が作る自家製ゴート・ヨーグルトを食べて育った私は体の芯のところが頑丈でした。母はすべてにおいて研究熱心な人で、60年前にすでに酵素が体に良いことを学んでおり、その当時、関東地区以外では誰も食べていなかった納豆も自家製で作っていました。そんなわけで忙しいほど精気みなぎる私が、ベビーシッターの仕事に精を出せば出すほど、どうしたことでしょうか、みるみる弱っていったのです。

食欲はなくなり、貧血のようにフラフラします。が、まだ右も左も分からない無我夢中の毎日の中、自分の健康状態を省みる時間も余裕も持ち合わせていませんでした。

ある日、いつものようにベビーシッターの仕事に行こうとしたとき、私の顔色の悪さを見かねてヒッチハイクでいつも乗せてくれるヨーク大学の学生ウォルターさんが「医者を紹介するから、とにかく病院に行った方がいい!」と真顔で言いました。さすがの私もそれでやっと重い腰をあげたのです。

なんと彼は親切にも日本人の医者を探し出してくれました。実はその時、彼の奥様のキャロルさんも妊娠が分かったばかりだったのです。

「僕のワイフも体調が悪いので医者に行ったら、妊娠が分かったんだよ」

もしかしたら、君もそうなんじゃない、とでも言いたげな彼に、私は心の中で「とんでもない!」と叫んでいました。まさか、まさかと思いながら、落ち着かない気持ちで検査結果を待ちました。2日後、医者から電話がありました。

「おめでとう、順調ですよ」

受話器を持ったまま、私は目の前が真っ暗になりました。クラクラしながら、「自分達だけでも大変なのに、どうやって子供を食べさせていこう…」と考えていました。私の心の天秤は喜びよりも不安の方がずっと重かったのです。

そうこうするうちに、いよいよ出産の日が近づいてきました。実家の母は私を心配して、手伝いに行こうかと助け舟を出してくれましたが、一人で苦労を乗り越えるために自分を追い込むようにカナダへやってきた原点を思い出して、「大丈夫、“案ずるより産むが易し”だから」と母の申し出を断ってしまいました。

やはりヒッチハイクでお世話になったロイスさんが、産気づいた私を病院に連れて行ってくれました。そして、長女誕生。今までこんなに崇高な喜びと光に包まれた体験をしたことはありませんでした。しかし、その後、私を訪ねてくれる人は一人もいません。22歳で母親になったばかりの私は孤独でした。6人部屋の病室では、赤ちゃんとお母さんを囲んだ見舞い客たちの明るい笑い声が一日中こぼれています。私は寂しさのあまりカーテンを閉めて独り声を押し殺して泣いてばかりいました。そのうえ、高熱まで出てきました。

その時の私は、「自己憐憫」という一番自分を落とし込む罠に身を任せていたのです。だけど、この危うい体験こそが、ひとりで立ち上がる大きな力になったことも事実です。

担当医の先生も心配してくださって、結局、10日間も入院させてくれました。入院生活はひとりぼっちで孤独でしたが、貧乏生活を続けていた私にとっては、他の入院患者が「まずい!」と繰り返す病院食も心からありがたいと感謝感激の食生活だったことを思い出します。

やがて退院する日がやってきました。それからの子育ての大変さは私の想像をはるかに超えていたのです。日本から1冊送られてきた育児書を頼りに奮闘しましたが、あっという間に育児ブルーに陥り、徐々に声が出なくなり、1ヵ月後には失語症になっていました。それでも立ち止まることは許されません。洗濯機などなかったので、汚れた布オムツは一枚一枚すべて手洗いです。初めて手の皮が全部むけるという体験をしました。

しかし、たとえ貧乏でも母は強し。とにかく「母乳さえ出たら育てられる」、そう考えて、水、ジュース、ミルク、とにかく水分をひたすら飲みまくりました。離乳食の頃にはご飯やポテト、トマトを柔らかく煮てつぶすなどしてスローフードに徹しました。そんなわけで、子育てに瓶詰めのベビーフードや粉ミルクを買って与えたことはありませんでした。

3ヵ月後、定期健診が終わり、「すべて順調、問題ないですよ」と言われてやっと息をつくことができたのです。

その翌月のこと、私を医者に行くよう親身に勧めてくれた優しいウォルターさんが、奥様のキャロルさんと生まれたばかりの女の子の赤ちゃんを伴い教会を訪れていた際、突然クモ膜下出血で倒れ、亡くなってしまいました。訃報を聞いた瞬間、ショックのあまり、私の母乳はぴたりと止まってしまったのです。

苦しいこと、つらいことが続いていましたが、私は心の中で、パール・バックの長編小説「大地」に出てくるある女性がサトウキビ畑で一人で出産するシーンを思い浮かべては、自分はまだまだ恵まれた環境であることを再確認するとともに、その強さ、たくましさに勇気づけられていたのです。

私の生活は突然子育て中心へとシフトしたのですが、ほどなくして子連れ家政婦デビューを果たすことになります。

【チャコの格言】”「案ずるより産むが易し」と心を決めてかかろう!”

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Session 2: 通勤はヒッチハイクで

70年代のカナダ。1ドル360円。北米が無限の夢をはらんだ憧れの地だった時代を想像してみてください。実際に足を踏み入れてみれば、高層ビルは少なく、道は広く、人との距離感は今よりもっともっと近かった、そんな時代でした。

さて、カナダに来て早々大失敗し(詳しくはSession 1をお読みください)、落ち込む私を尻目に、街はクリスマスのデコレーションで華やぎ始めていました。

そんな華やぐ街にはものすごい強風が吹き抜けていきます。…寒い。今まで感じたことのない、内臓が締めつけられるような寒さでした。窓に牢屋のような鉄格子のついた家賃月85ドルのベースメントに住んでいた私は、日に日に下がっていく気温に危機感すら感じるようになりました。だって、寒い日に着るコートがないんです。

ある日、あまりの寒さにガタガタ震えながら歩いていると、道端にギフトラッピング用の美しい包装紙がゴミに出されているのが目につきました。これで何かできないか、即座にそう考えた私はその束をこっそり持ち帰りました。

その夜、日本の折り紙よろしく鶴を折ってみました。なかなかいい感じ。さらに一番安いワイヤーとテグス糸を買ってきて折鶴を吊るしたモビールを作ってみました。ますますいい感じ。…これ、売れるかも!

翌日、それをヨーク大学構内に並べたところ、これが飛ぶように売れたのです。クリスマスには誰もが「それどこで見つけたの?」と言われるような個性的なギフト探しに躍起になっています。日本の折り紙を使ったモビールは当時のカナダには斬新だったようです。

売り上げたお金でやっと冬のコートを買うことができました。さらに、うれしいことが起こりました。どこでどう伝わったのか、なんと「子供たちのサマーキャンプに折り紙講師として来てほしい」という依頼が舞い込んだのです。なにか行動を起こすと、それは必ず「次」につながるものなんですね。

大きな声で「イエス!」と答えて電話を切ってから、ハタと英語ができないこと、それに折り紙の知識もそんなに深くないことに気づきました。でも、英語も折り紙もこのチャンスに独学で勉強すればいいんだと、与えられた機会に感謝したことを覚えています。

そうこうしているうちに、私は英語力をあまり必要としないベビーシッターの仕事を始めました。ヨーク大学には夫婦寮や家族寮があり、意外にも結構ニーズがあったのです。

お金がなかった私は、ベビーシッター先へは毎朝ヒッチハイクで通っていました。今なら考えられないことですよね。

たいてい車で通学するヨーク大学の学生や教授(その中にはヨーク大学名誉教授の布施豊正先生もいらっしゃいました)が拾ってくれました。そのうち、いつも同じ人たちが乗せてくれるようになったのです。その人たちは、貧しかった私たちをサンクスギビングやクリスマスのパーティに招待してくれました。中には自分の実家のトロント北部のオーエンサウンドという田舎町まで招待してくれた人もいました。カナダの人々の心根の優しさに触れることのできた貴重な体験でした。

どうにかこうにか順調に(?)滑り出したかに見えたカナダ生活でしたが、ほどなくして私の体に異変が起こることになります。それにいち早く気づいてくれたのは、ヒッチハイクでお世話になった彼らでした。

【チャコの格言】”窮すれば通ず!工夫力が未来を拓く!”

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Session 1: 赤ちゃんが泣きながら生まれてくるように

今、このコラムを読み始めてくださった、あなた。はじめまして、チャコです。

早速ですが、質問です。あなたの心は今、笑っていますか、泣いていますか、怒っていますか、それとも喜んでいますか。

私がカナダのトロントにやってきたのは、日本が高度経済成長へと邁進していた1971年のこと。そのときの私は、泣いていました。当時、私は自分を追い詰めるような生き方を選んで日本を後にしたのです。傍目にはそうは見えなかったでしょうね。なにしろ私は新婚ほやほやだったのですから。

あれから40年、私はここトロントで25年以上続けてきたビジネスを昨年夏に引退し、今は「林住期」つまり第三の人生に突入したところです。思えばあの夏、新婚の私が泣きながらスタートしたカナダ生活は泣きっ面に蜂の連続でした。
たとえば、仕事。キャリアなし、コネなし、経験なしに加え、英語力もゼロだった私にはさしたる目標さえありませんでした。たまたまコーヒーショップの店員募集の張り紙を見て応募すると、即採用。

なんて運がいいの!と、生まれて初めて就いた仕事に嬉々として出かけたものの、初日の午後3時にはクビになっていました。

コーヒーのテイクアウトの決まり文句「Coffee to go」も分からなかったのですから無理もありません。そのコーヒーショップは夫婦でやっていて、おじさんは優しかったのですが、おばさんときたら私の一挙手一投足を厳しい目でチェックし、もたついていると鬼の形相でにらみつけてきます。

とうとうおばさんは私の手に25セント硬貨を握らせて、「Go home!(もう帰れ!)」と言いました。朝から働いているのですから、もっともらえるはずだと思い、「これじゃ少ないと思います」とつたない英語で抗議すると、無言でレジを開けたおばさんはやおらコイン数枚をつかみ、怒りと共に思いっきりカウンターにバッシーン!と叩きつけました。

カラカラと乾いた音をたてて床に零れ落ちていくコインを眺めながら、英語の壁の大きさを思い知りました。それでも私にとっては大切な初任給。私は床にはいつくばって一枚一枚コインを拾っていきました。本当に情けなくて、悔しくて、止まらない涙をそのままに、しゃくりあげながら家に帰りました。

そのときの私には、十数年後、自分が社員百名を超える会社の副社長になるなどとは夢にも思っていませんでした。

ただ、今考えると、深く落ち込むたびに、それが次により高くジャンプする原動力になっていったのは確かです。人は一人では成長することができません。私はたくさんの人と出会う中、こういう惨めでかっこ悪い経験をいくつも重ねながら、人生を変えていきました。 赤ちゃんが泣きながら生まれてくるように、生きながら自分を生まれ変わらせるときにも涙がつきもののようです。

泣きましょう、笑いましょう、怒りましょう、喜びましょう。それが心のエステです。さあ、私と一緒に心のエステをはじめましょう!

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